神の救いは永遠〜石の環に込められた決意〜

                                                                                     司祭 バルナバ 小林さとし

 「ヨシュアはヨルダン川から取った十二の石をギルガルに立て、イスラエルの人々に告げた。」   ヨシュア記4・10
 イエス様の受難を覚える大斎節も半分が過ぎました。今日は、苦難の只中にあって、その先へ進んでいくイスラエルの人々のことを覚えましょう。エジプトを脱出したイスラエルの人々は、指導者がモーセからヨシュアに代わり、いよいよ約束の地カナンに入るところです。

   目の前にはヨルダン川が流れ、奴隷であった過去の屈辱と苦悩がよみがえってきました。人は新しい環境に入っていく時、自分たちの過去が思い返され、目の前の困難さの前で立ち尽くすものです。何とかその苦しさから逃れたいと思いもがき苦しみます。過去への囚われは、目の前の困難さをさらに厳しいものにします。

     しかし神は目の前にある困難、つまりヨルダン川を干上がらせ、人々がそこを通れるようになさいました。ヨシュア達は、川底で石を拾い、それを地上に立てます。ギルガルとは石の環という意味です。石とは神の救いをあらわし、環は永遠をあらわします。

川底から石を手に取りそれを台地に打ち立てるイスラエルの人々は、神の救いが最も困難なその中にあったことを永遠に忘れまいと決意するのです。

   この後、イスラエルの人々は、生活が徐々に変化していきます。つまり今まで天から降ってきていたマナを食べていた生活から、その土地の農作物を頂き、あるいは耕作し食べる半農半牧の生活に変わっていくのです。その意味で、ギルガルという町はまさにイスラエルの人々が次の一歩を踏み出すために立ち止まった町だったのです。イスラエルの人々は、神の救いが最も困難な中にあることを永遠に忘れないために、石を立てた後、二つの習慣を行います。

   それは石にまつわる習慣です。この石の環でエジプトで体験させられてきた恥辱が取り除かれるというのです。実際この場所で民は全員火打石の刃物で割礼を受けました。これは古い自分を捨て去る行為です。痛みを伴うけれども石によって過去の自分に背負わされた恥辱を取り除かれたのです。

     次にギルガルで過ぎ越しの祭りを祝いました。これは神様との関係を正しいものにする儀式です。神様がイスラエルの人々を人間として尊い存在であると太鼓判を押す儀式です。神様へのささげ物を石の上で焼き尽くすのです。それは他でもない神の思いが純粋に清く人間の心に満ちるためです。その行為を通して人は自分の足で立ち上がり生きていくことの出来る存在として、再確認されるのです。新しい土地ギルガルで、人々は。新しい土地と交わり、新しい暮らしを受け入れていく準備が出来たのです。人は前に進もうとする時、過去の自分を清算し、自分が神様と正しい関係にあるかを再確認することで、一歩踏み出すことが出来るのです。イスラエルの民がギルガルでしばしとどまる時間が与えられたように、私たちにも日々の中で、古い自分を脱ぎ捨て、新しい命に生きるための神さまとのひと時が保証されているのです。

 

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